2014年09月22日
おじぃの十三回忌
今日はおじぃの十三回忌。
明日が運動会で帰れないので宮古から手を合わせたいと思います。
いつも心の中で生きているおじぃ。
うちの長男が生まれて2ヵ月後に他界。
ちょうど、うちの兄のところも次女が生まれたばかりで
お姉さんと双子のように並べて育ててました。
その姿を見て、どっちが女か男かおしめ取るときしか
分らないさーと言ってジョークも言って
すごく喜んでいたな^^
その2ヵ月後、88歳で天に召されました。
祖父が生きている時に書いた記事。
内容は変えて、「沖縄オバァ列伝番外編・オジィの逆襲」という本にも載せていただきました。
今日はおじぃを想い、おじぃの思い出を振り返ってみます。
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うちのおじーは、酒も女も博打もしないイイ男だとおばぁは言う。
おじーは、おばーに怒られても、毎日黙って聞いている。
朝、家族の誰よりも早く起きると、おじーはウチャトー(仏壇にお茶を捧げる)をして、ご先祖様に祈りを捧げる。普通は、たぶんおばーの仕事だけど、うちは昔からおじーがウチャトーはするのが習わしになっている。
そして、パンが大好きなおじーは、朝、家族のパンを焼く。
時間が無いから食べないよーと言ったら、銀紙に包んで「ムッチイケー(持っていけ)」という。
そして、庭の花木に水をかける。おじーは、草木が大好き。
だから、いつもうちの庭は、草木が枯れた事が一度も無い。
いや、一度だけあった。おじーは、私が中学校の時に、心臓発作で倒れて、7年入院していた。
その時、庭の植物が枯れかけたので、慌てて父が手入れをしたり、兄弟達に分けたりして、おじーの大事な植木は助かった。おじーも又、植木の様に危ない状態にいた。
5年ぐらい入院していたある日、先生から話があったらしく、おじーは心臓の手術をする事になった。
でも、その時すでに70だったおじーが心臓手術を受けるのは、大変で50%の確率で、助かったとしてもほとんどの人がボケてしまうという。
おばーは「やってください」と言ったそうだ。おじーも手術を承諾した。
「戦で死ななかったおじーだから、大丈夫!」と家族はいっていた。
その時、初めて私はおじーの戦物語りを聞く事になる。
実は、おじーは戦争の時、兵隊として徴兵されてない。
とっても、不思議な事である。
沖縄の成人男性のほとんどがいくさにかり出されている筈なのに、うちのおじーは家族と一緒に逃げて助かった。
世の中の男達に赤紙が送られて来て1人、また1人と戦に出ていく中、おじーのところには、最後まで赤紙が来なかった。
おじーもいつか赤紙が来るだろうと思い、家族に逃げる準備等もさせていたのに、赤紙がおじーのところに来る事はなかった。
お陰でおじーは生きて、家族を守る事ができた。
おじーに赤紙が来なかったのには、理由があった。
実はおじー、戦争が始まるちょっとまえに、ちょっと体をこわして入院してたそうで、たまたまそのカルテが病院に残っていたらしく、軍からの召集が来なかったのだ。
「あの時は、びっくりしたねー」とおじーは笑って言った。
でも、戦世の中にほうり出されたのだから、兵隊では無かったが、死に直面する事は多々あったらしい。
ある時、食料を探して歩いていた時、遠くでアメリカーの爆撃がはじまった。慌てたおじーは、通りかかった日本軍のトラックに飛び乗った。
ところが、兵隊さんに「貴様ー、何をしとるか!おりろ!」と、トラックから落とされた。爆撃も近づいているので、慌てて走るトラックを遠くにみながら、おじーも逃げようとしたその時、さっき飛び乗ろうとして突き落とされた日本軍のトラックが遠くで爆破されるのが見えた。
「あれに、乗っていたら、死んでたねー」とおじーは言う。落としてくれた兵隊さんは、おじーにとって命の恩人となった。
ほかにも沢山、大変な事があったようだが、おじーは死ななかった。それから、おじーは、グァンス(先祖様)に毎日ウチャトーするようになったらしい。
おじーには、「神様がついてるさー」と、おばーが言った。おばーが言った通りだった。おじーの手術は大成功!
心配していたボケもぜんぜん無いどころか、退院してきたおじーは、依然にもましてパワフルになって帰って来た。
そして我が家には、息子達に預けていたおじーの植木鉢が帰ってきた。パワフルになったおじーは、オニューの自転車が欲しいと言い出した。
これには、家族も大反対で、「あぶない!」80才で自転車乗ってる人いないよー」と言ったが、おじーは意外に頑固だったらしい。
結局、父達は折れて、自転車を買った。
それからは、おじーの集いの場所である那覇では有名な与儀公園に足しげく通い、おじー仲間とゆんたくするのが楽しみになった。
うちの実家は栄町という沖縄では結構有名な戦後からの飲み屋街。
そこから、与儀公園までというのは、ひめゆり通りという大きな通りを通っていかなければならない。
車の量は、58号線と並ぶ程、交通量の多い通りとして知られている。
おじーの自転車さばきは結構、立派だが時々転ぶらしいが、家族には絶対言わない。
ある日、おばーが私を呼んで、おじーに聞こえるように「うり!自転車で転んで来てるのに、言わないさー。」と言った。
おじーを見ると知らんフリ。
おばーに聞くとひじをすりむいて帰って来たらしい。
おばーがいうと、「あい?マーデヤマチャガヤー(何処でけがしたかな~?)」ととぼけたらしい。
たいした事が無かったので、私も知らんふりしてあげた。
だって、おばー、恐いんだもん。
おじーは、1日何度もおばーに怒られている。
毎日の事なので、私達もなれてるけど、おじーは一言も反論しない。
黙って聞いている。どんなに理不尽な事でも、黙って聞いている。(もしかしたら、聞いて無いのかもしれない)
でも、おばーもおじーがいないと生きていけないのかもしれない。
実は、おばーはバツイチ子連れでの再婚。色々あったらしい。
そんなおばーを受け入れたのが、いとこでもあるうちのおじーだった。
おじーは真面目で働き者だったから、おばーはおじーと結婚してとっても幸せだったようだ。
だから、たぶんおばーは、おじーが居ないと生きていけない。
だから、おじーもおばーを残してはいけないのかもしれない。
おじーの帰りが遅いと、玄関まで出て待っているおばーの姿は、普段からは想像できない程、可愛い。
うちのおじーは、とっても可愛い。
ハイカラーである。若い頃から映画が大好きで、そんなおじーの為に兄がケーブルテレビを入れた。
時代劇チャンネルや昔の映画が見れるとあって、最近は自転車もお休みして、テレビに釘付けになっている。
おじーの大好きなものと言えば、もう一つは帽子だ。
昔のアメリカ映画に出てくるようなつばのある帽子を小意気にかぶり、おばーのお使いへ出かける。
グレーのハンチング帽も大好きで、私が「泥棒みたい!」とからかうと、笑ってチャップリンの様におどけてみせる。
背は小さくて、髪は美しい白髪。
おじーの白髪は本当にきれい。
銀糸のようにしなやかで、美しい。
色は白くて、いつも頬が艶やかで、ほんのり赤い。
とっても、かわいいおじー。
最近、ひ孫が出来て、私達は初めておじーのカチャーシを見た。
いままで、おじーは一度もカチャーシを踊らなかったから。
多分、首里の士族魂なのかもしれない。
でも、ひ孫が産まれて、おじーは踊った。私にはおじーがどんどん若返ってるように見える。
おじーは、きっと本当に若返ってるのかもしれない。これからも、長生きしてね。じいちゃん♪
Posted by ナオミー at 10:55│Comments(0)
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